本居宣長の「うひやまぶみ」という本に、学び方についての大事なことが書かれているので、それを紹介したいと思います。
本居宣長はは江戸時代の学者ですね。
師と仰ぐ賀茂真淵に1回だけ会って。お前がしっかりと私の後を継げ、この件に関しての勉強をやれよと言われる、それで奮起した本居宣長は、それから刻苦勉励して一生懸命頑張り、古い時代の日本を学ぶための重要な本「 古事記伝」を仕上げられるんです。
「松阪の一夜」というとても有名な話なんですけれども
その本の総論の中に「志を高く大きに立てて」というところがあります。
ここで非常に心に残る こと言っています。
どういう学問がいいとか、学び方こうしたらいいとかそのようなことは決めがたいが、そのようなことは決めなくても良いことであって ただ本人の考えるままにすればいいんだとあります。
「ただそんな風にばかり言っていては今から学び始めようという初学者には取り付き所がなくて、おのずと怠け心が起こるきっかけにもなるだろうから、この本居宣長の思っていることを述べるんだけれども」ということが書かれています。
それは、最初から奥義を決めようとするなということです。
学問には様々な分野があり、それらのどれも大事なものだから全ての分野を学んで精通したいと思うのはわからないではない、
しかし一人の力をもってして すべての奥義を極めるなどというのは無理なこと。
その中で自分の専門とすべきものを決めて「それだけは極めねばやまず」と思い、初めから高い志を立てて勉学に励んだ方がいいですよと。
その上で他の分野にもができる限り手を伸ばしていけばいいよというようなことが書いてあるわけです。
同じぐらいの時代のイギリスで、はマトンによって書かれた「知的生活」という本があります。
この中に19世紀くらいの知的階級の方々のお話が出てきます。
その頃の財産を持ってる人たちの趣味というのは研究をすることでした。
研究室建て、一生懸命何かに打ち込んで研究することが趣味だったわけです。
そこに学びの戒めの言葉としてよく書かれていることがあります。
それは「あれこれ研究するな」ということです。
どれか一つに打ち込めということですね。
私のようなマルチポテンシャライトは一つに打ち込むということが苦手です。
なので、どれか一つに打ち込めというのは頭の痛いことです。
sかし、何かを学ぶということに関してはそれは大事なことではありますよね。
私自信は「広く浅く」でいいと思ってて、何かを極めようという学びの仕方はあまりしてはいません。
一生をかけていろんなことを学んでいきたいなぁという学び方を私はしようと思っています。
しかし、何かにしっかりと打ち込んで、それでも って世の中に身を立てようと思う人はどれかに絞ってしっかりと学んだ方がやっぱり いいのでしょう。
本居宣長はその後に、次のようなことも書いていいます。
何かに打ち込んで研究をしようと思った時にそれに関する書物は全部読まなきゃいけない。しかし必ずしも順序を決めて言うまでばならないことはないと。
ただ便宜に任せて順序にかかわらずあれこれと読めばいいんだというふうに書いています。
あれこれ読めばいいということと、一つに絞れということが一瞬矛盾しているかなと思いますね。
しかし、矛盾してはいません。
「便宜に任せて順序にかかわらずあれこれと読め」という意味は、まずは理解しようとは思わずにおおまかにあれこれさっと読んでから絞れという意味です。
そこでは、どんな書物を読むのにも初心のうちは初めから書いてあることを理解しようとしては いけないと言っています。
まず大まかにさらっと見て他の文献に移り、あれやこれやと読んでさらに前に読んだものに帰るというようなことをすすめているのです。
それを繰り返していけば最初に理解できなかったことも徐々にわかるようになるんだということですね。
これらの書物を何回も読むうちに、その他の必読書についても、また学問の方法などについても次第にに自分の了見が出来上がるものですよと いうようなことが書書かれているのです。
私はこの部分が実に好きです。
何か学ぼうと思って、最初のモチベーションにまかせて「これら全部読破するんだ」みたいな気持ちで本を何冊も買ってくることがあります。
それで読み始めるんですけど、最初から まともに読もう思うと思うとわからないんですよね。最初の本から。
そうして、力尽きてやめてしまうということが何度もありました。
まさに本居宣長の言う、してはいけない読み方をしてたわけです。
私は大学時代に西洋の中世史を研究していました。
そこで当時の基本的な文献とか本とかをいっぱい 買い込んできました。
今でも本棚の中に大事な蔵書として置いてあります。
けれども当時、読んでもわからなかったんです。いくら読んでも何が何かわからない。
私はすぐに論文に役立つ勉強がしたかったんです。
論文として一応論の筋道を立てているので、それの傍証になるようなことが書いてある本を読みたかったんです。
つまりすぐに役立つ勉強というのをしたかったので す。
しかし手当たり次第に買ってきたきた本には、そのような本だけではなく自分の人生の血肉になるような 読み方をすべき本もまざっていたんです。
それらをじっくりで読んでおくことによって将来の自分の音学びが様々なところでつながって何か大きな木になっていくような、自分の学びの太い根っこになるようなそういうような本だったんです。
論文自体にはまったく役に立つとは思えません。
目の前に論文がぶら下がっているような人間にとっては、役に立つか立たないかわからないような本を読んでいる暇はないという状況だったので、最初少し読んだだけで何が何か分からんと思って読むのをやめました。
今振り返ってみると惜しいことしたなぁと 思います。
すぐに役立つような勉強だけじゃなくて知的な素養、「知の筋トレ」みたいなそのような本の読み方をしておくべきだったなぁと思います。
本居宣長は、わかろうと思って読む読み方も大事だけれども最初からそんな読み方をしちゃダメだよと。 さらっと読みなさいっと言いました。
すごく気が楽になる学び方です。
当時僕が「うひやまぶみ」を読んでいたら、先程の本もわからないなりにさっと読んでみたということができたかもしれないなぁと思います。
とりあえずさらっと読んでおけば、何か心に残るようなフレーズなり何なりは必ずあったはずです。
そういうものがその後に学ぶこととチラチラと繋がりあってさらに深く理解していくことになったん だろうなというふうに思います 。
即効薬は、すぐに役立ってそしてお金も生みますよね。
ただその即効薬を作るには全くお金にならない長い基礎研究の時間が必要です。
この長いお金を生まない基礎研究をやっているからこそ、すぐに役立つお金を生んでくれる即効薬が生まれるわけです。
すぐに何の役に立つかわからないような勉強というのは、すぐに役立つ勉強とはまた別に大事にしながら一生懸命やっておく必要があるなというふうに思います
こうしてこれらの勉強とをしながら、これがいつかどこかで何かと結びついて。「ああ、ここで 結びつくのか」というような時が来るのを待つというのも非常に贅沢な 学び方だなというふうに思います。
そこから生まれるものは大きいですね。
はいそういうことで本居宣長の書いたことから色々考えてみました。
何かを学ぶことを志したら、その志を長く持ち続ける。
あわてずに、必要な文献を、その時に気持に任せてあれこれさっと目を通す。
そしてまた最初の本に戻り読んでいく、ということを繰り返す。
そのうち、それぞれの本の中から少しずつ汲み取ることができたことが増えていき、だんだんと太い幹になっていく。
そこから、何か一つに打ち込むことを決めて大成していきなさいということですね。
これは学びだけでなく、人生上のさまざまなとりくみに言えることだと思います。
、この道を歩んだと決めたら目標を長く持ち続けて、長く遠くを見つめ続けて、それに関する書を読み続ける。すぐにや役に立たないけれども太い土台となるような本も、すぐに役立つような本とは別にしっかり読んで行き、今役立ったというような小さな役立ち方ではなく太い幹となる知識に育て上げてより大きな役に立ち方をするような学びを目指していくと、きっと良い勉強になるんだろうなというふうに思います