ふと、心が折れそうになる夜があります。
毎日を必死に過ごしているつもりなのに、なぜか自分だけがうまくいかない。
「もう、全てを投げ出してしまいたい」
そんなため息が漏れてしまう瞬間。
そんな時、ふと思い出す言葉があります。
映画界の巨匠、チャーリー・チャップリンの言葉です。
「人生は、クローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」
(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)
とても有名な言葉なので、耳にしたことがある方も多いかもしれません。
ただ、この言葉をじっくりと咀嚼してみると、これは単なる美しい名言ではなく、私たちが日々の「生きづらさ」を乗り越えるための、非常に実用的な「技術」の話であることに気づかされます。
「クローズアップ」という名の悲劇
まず、「クローズアップで見れば悲劇」とはどういうことか。
映画のスクリーンいっぱいに、泣いている主人公の顔が映し出されているシーンを想像します。涙が頬を伝い、苦悩に顔が歪んでいる。観客である私たちは、その表情のディテール、息遣いまで感じ取ることができます。
そこにあるのは、間違いなく「悲劇」です。痛々しくて、見ていられないほどの。
私たちの日常で失敗した直後というのは、まさにこの状態なのだと思います。
実は以前、私自身もまさにこの「クローズアップの悲劇」の渦中にいたことがありました。
Kindleで新しい電子書籍を出版した時のことです。自分なりに自信作ができあがり、「これはきっと喜んでもらえる!」とワクワクしながらリリースしました。
しかし、最初についたレビューは、星一つでした。
その瞬間、目の前が真っ暗になりました。
PC画面の小さな星マーク一つが、私の視界いっぱいに拡大され、世界の全てであるかのように感じられました。
「あんなに頑張ったのに全否定された」
グルグルと悪い思考だけが頭を支配し、その夜は眠れませんでした。
自分という存在の、さらに小さな「失敗」という一点にカメラがフォーカスしているわけですね。周りの景色は一切見えず、ただただ苦しい。
これが、主観的になりすぎて視野が極端に狭くなった「クローズアップの悲劇」の正体でした。

「ロングショット」への視点転換
チャップリンの言葉の後半はこう続きます。「ロングショットで見れば喜劇だ」。
カメラを引いてみなさい、という教えです。
先ほど泣いていた主人公からカメラが引いていくと、実は彼女がのどかな公園のベンチに座っていたことがわかります。
子供たちが遊び、鳩が歩いている。
その鳩をネコが狙っていて、飛びついた瞬間鳩が飛び去る。
ネコは勢い余って、噴水の池に飛び込み、それをみて子どもたちが笑っている。
そんな中で、彼女一人がこの様の終わりのような顔をしてないているのです。
その姿は、さまざまなことがおきている豆粒のように小さく、なかなか滑稽でもあります。
「あんな小さなことで、あんなに大騒ぎしていたのか」
そう思えた瞬間、そこには「おかしみ」、つまり「喜劇」が生まれます。

私のKindle本の件も、まさにそうでした。
翌日、ふと不思議な感覚に襲われました。
いい大人が、たった一つのレビューで布団をかぶって泣いている姿です。
いや、もちろん泣いてなんかいないですよ。
でも、そう思えた途端、おかしくなったんです。
私はブログに正直に書くことにしました。
「低評価がつきました。ものすごくヘコんでいます」と。かっこつけずに、ありのままの「悲劇」をさらけ出したのです。
すると、予想外のことが起きました。
読者の方から「勇気をもらいました」「りゅーさんでもそんなことがあるんですね!実は私も怖くて出版できなかったんです」
私の個人的な「悲劇」が、カメラを引いて発信したことで、誰かを励ます「喜劇(エンターテインメント)」に変わった瞬間でした。
学生時代の恥ずかしい失敗談を、10年後の同窓会で「あの時はさあ」と笑い話にできるのも同じ理屈なのでしょう。時間という名のカメラが、私たちを自然とロングショットの視点へと連れて行ってくれるのです。
悲劇を笑いに変えた天才の流儀
「それはチャップリンが天才だから言えることだ」と思われるかもしれません。
しかし、彼の人生を知れば知るほど、この言葉の重みが変わってきます。
チャップリンの人生そのものが、実は壮絶な「悲劇」の連続でした。
貧しい家庭に生まれ、父親は蒸発、母親は精神を病み、彼は孤児院や貧民院をたらい回しにされました。路上生活に近い飢えと孤独。クローズアップで見れば、これほど悲惨な幼少期はありません。
しかし、彼はその悲惨さを、映画の中で「笑い」へと昇華させました。
傑作『黄金狂時代』に、象徴的なシーンがあります。
猛吹雪で山小屋に閉じ込められ、食べるものがなくなった極限の飢餓状態。普通なら目を覆いたくなるような悲惨な状況です。
そこでチャップリンは、自分の履いている革靴を茹でて、ナイフとフォークで上品に食べ始めるのです。靴紐をパスタのように巻き取り、靴底をステーキのように切り分け、釘を小骨のようにしゃぶる。
その姿があまりにも優雅で真剣だったため、観客は大爆笑しました。
「飢えて靴を食べる」という最も悲惨な状況を、極限まで客観視し、デフォルメすることで、極上の「喜劇」に変えてしまったのです。
悲劇をなかったことにするのではなく、悲劇を素材にして喜劇を料理する。
彼のこの姿勢は、現代を生きる私たちにとっても、大きなヒントになるように感じます。

心のカメラを引くということ
とはいえ、私たちはチャップリンのような天才コメディアンではありません。
ただ、自分の人生という映画の「監督」ではあります。
辛いことがあった時、どうやってこの「ロングショット」の視点を取り入れるか。
私自身が実践してみて、心が少し軽くなった「視点の切り替え方」がいくつかあります。
一つは、「時間」でカメラを引くこと。
トラブルの渦中にいる時、「この出来事は、10年後も同じくらい重要だろうか?」「これをネタに笑える日は来るだろうか?」と問いかけてみます。
大抵のことは、1年後には忘れています。「これは将来の笑い話のネタができたな」と口に出してみるだけで、不思議と傷ついた心が少し癒やされる感覚がありました。
もう一つは、「空間」でカメラを引くこと。
Google Earthのように、視点を自分の部屋から街へ、日本へ、そして宇宙へと上げていくイメージです。
広い宇宙から見れば、地球は小さな青いビー玉。その上の小さな島国の、小さな部屋の隅っこで、上司に怒られて頭を抱えている自分。そう想像すると、自分の悩みがなんだか愛らしい、ちっぽけなものに思えてきて、肩の力が抜けました。
そして最後に、「これは映画のワンシーンだ」と思うこと。
もし自分の人生が映画だとしたら、ずっと順風満帆で何のトラブルも起きない物語なんて、きっと退屈で誰も見たくないでしょう。
主人公が失敗し、挫折し、どん底に落ちるからこそ、そこから這い上がる姿に人は感動します。
今、もし自分がどん底にいるとしたら、それは人生という映画の中で一番盛り上がる「クライマックスへの伏線」なのかもしれません。
監督である自分が、カメラ越しに「いいぞ、いい悲劇だ。ここからどう逆転する?見せ場だぞ」と、演じている自分を見守っている。
そんな感覚を持つことで、現状を少しだけ突き放して見ることができました。
おわりに
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」
もし明日、嫌なことがあって、自分が惨めに思えることがあったなら。
「あ、今自分はクローズアップになりすぎているな」と気づくだけで十分なのかもしれません。
そして、心のドローンを飛ばして、空高くから自分を眺めてみる。
必死で生きている自分の姿が、少しだけ愛おしく見えてくるはずです。
そのシーンは、いつか必ず、人生という物語を面白くするための大切な伏線になる。
そう信じて、たまには自分自身の「悲劇」を、ポップコーン片手に眺めるくらいの気持ちでいたいものです。
